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<スタッフコラム15> 旅の定義?
今までしてきた旅の感想を、ここでちょろっと一筆したためる。
なんと粋な!そんなことをしてみたいものである。
そんな経験をひとつでも持ってたらかっこいいし、
しかも、まだ20代そこそこの娘が語っていたりした日には
モゥ。。。である。
“「女ひとり旅」プラン”なんていうパンフレットにあるようなものでもなく、
深夜ネットでどこぞの航空会社でドコドコ経由で格安チケットを入手し、
帰りの日程は未定で、行きのチケットだけ手配。宿泊所は現地についてから探して。
たまたま出会ったバックパッカーの日本人なり外国人なりと「旅は道連れ」ってな
仲になり、現地の人とも仲良くなり、有意義な旅を満喫し、
何かを考え思い得て、そろそろ金もつきたし帰るべか。
これが私の旅の「聞いた話でのかっこいい定義」である。
バックパッカーの方々、旅行代理店関係者の方々、
旅を楽しむ方々、蘊蓄を語れる方々にははじめに謝っておきます。
経験もない私の言う、妄想事ですので悪しからず。

そう、経験。
経験があるないで言えば、この「定義」に乗っ取れば、ない、になるが、
ないはずは無いのである。
「域」を限らず言えば、旅の第一歩は子どもの頃に誰しも経験あるだろう。
ランドセルをほっぽいて幼なじみとした遊びは、
「今日はどこの辺に行ってみよう。」
幼心で、ここまでが。夕暮れまでに。自分たちの足で。
行って帰れる領域というものがあってそれは、
自分の生活範囲にある学校なり山なり鉄塔なり神社が
「見える範囲」「方角が何となしに解る範囲」であり、
「♪北風小僧の寒太郎〜」が聞こえるところマデ。
地図もなければ時計もない。自分たちの勘頼り。
そしてそれは、親に心配されないであろう安全地帯でもあった。
それを裏切れば、怒られる!
鬼の形相になった母の顔を見るという恐怖心の方が強かった。
そんなあらゆる制限の中の旅=冒険は、なんと自由だっただろう。
今より断然地球に近い目線で、虫眼鏡でもつけているかのように
色んなものが視界に飛び込んできて、時間の尺度も感情の尺度も
ずいぶん短くぶんぶん振り切れていた気がする。

世間的には大人になって、
ここまで→世界中で法的に許されて、安全とされているところまで
夕暮れまでに→時間とお金があるのなら、いつまででも
自分たちの足で→自転車自動車飛行機船で
行って。
帰れる。
ところまで行ける様になって。
TVの中の景色とか、遺産と言われてたものが
実際に反射する光の分子をその目にうけて、観る。
感じる。味わう。触れる。
子供の頃の尺度メーターで、神経に障るもののにすべてに
いちいち反応していたら、麻痺するだろうに。
でも、大きく揺れる今の尺度メーターはなかなか満足してくれない。
なんでかな。
いつのまにこんなに尺度だけが大きくなってしまったんだろう。
些細なことにも感動していたいのになぁ。

此処ではない、何処かへ。

誰かがそんなコトバを残してったっけな。
その言葉に突き動かされながらせわしく過ごしてはいるけれど
帰れる場所のあることに感謝しよう。

ああ、そっか。
それを確かに感じる為に、人は旅にあこがれるのかもしれないな。
自分の足元を見直すために。
じゃあ、出かけなきゃ。。

最後に。
「どこでも生きていける人間になりたい」
ちらっと見かけて忘れられない、戦前に生きた女性の言葉でした。

-----(一般的な定義:大辞林より)
たび 【旅】
住んでいる所を離れてよその土地へ出かけること。
名所旧跡を訪ねたり、未知の場所にあこがれて、また遠方への所用のため、居所を離れること。旅行。

——の恥はかき捨て
旅先では知る人もいないし、長く滞在するわけでもないから、恥をかいてもその場限りのものである。
——は憂(う)いもの辛(つら)いもの
旅はよるべき所も頼る知人もないから、とかく苦しくつらいことが多いものである。
——は情け、人は心
旅にあっては、人の情けがうれしく感ぜられ、また人は心の持ち方が何より大切である。
——は道連れ、世は情け
旅は道連れのあるのが心頼もしく、世の中を渡るには互いに思いやりをもつのが大切である。
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10月25日 香川
by bird05 | 2005-10-25 08:15 | スタッフコラム
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